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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第3節 幸せをあげるよ [3]




 父が誰だかわからない。
 その現実をどう受け止めればよいのか、美鶴にはわからなかった。
 泣いて(あわ)れめば良かったのだろうか? なんだそうかと、冷たい態度で対応すれば良かったのだろうか?
 美鶴は、一言叫んで、綾子の店を飛び出してきてしまった。



「詩織ちゃんの親は中絶を勧めたのに、詩織ちゃんは頑張って産んで育ててきたのよ」
 詩織を庇うような綾子の声も、美鶴にはまるで遠くで微かに響いているようにしか聞こえなかった。
「詩織ちゃんはね、ちゃんとした真面目な学生さんだったの。詩織ちゃんは何も悪くはなかったのよ」
 口を開くのは綾子ばかり。詩織はソファーに腰を下ろしたまま、ぼんやりと、だがときどき嘲るような笑みを浮かべている。
 笑っている。
 母の表情が、美鶴に冷めた感情を与えた。
「こんな育て方するなら、堕ろせばよかったじゃない」
 美鶴の一言に、ほんの僅か、詩織が視線を向ける。だがすぐにふらりとあらぬ方を向く。その仕草の一つ一つに、言いようのない感情が沸き立った。
 なぜだか腹が立った。昨夜言い争った時とは比べ物にならないほどの激情が一気に競りあがった。
 抑えられなかった。
「マトモに育てられないなら、最初っから産まないでよねっ!」
 その一言と共に飛び出した。綾子の声が背中から聞こえてきたが、美鶴は夢中で走りだした。
 母の声は聞こえなかった。追ってくる気配もなかった。そのまま駅へ向かい、電車で地元まで戻ってきた。



 感謝しろと言うのだろうか? 周囲の反対を押し切って産んだ母親に、感謝しろと言うのだろうか? 自分の母は、悲劇を背負いながら未婚で娘を育てる素晴らしい人間だと、そう尊敬すればよいのだろうか?
 美鶴には、そんな感情は浮かばない。
 真面目な学生さん? そんなの嘘だ。どうせ学校へもロクに行かずにどこかで遊び呆けているような生徒だったのだ。今みたいに繁華街へ行って、男でも引っ掛けて遊んでいるような人間だったに違いない。
 犯されたっておかしくもない。
 冷めた感情だけが、虚しく広がる。哀しいだとか辛いだとか、自分は憐れな存在だなどといった気分にすらなれない。所詮レイプされたのは母であって自分ではないのだから、だから自分はこれほどまでに冷めているのだろうか?
 嘲るような母の笑みが、脳裏にこびり付いて離れない。
 私鉄とJRが交差する木塚(きづか)駅の裏の路地。少しずつ雨足が強くなる中、濡れないように小さな商店の店先を移動しながら息を吸う。
 笑っていた。母は、笑っていたのだ。
 まるで勝利宣言でもされたかのような、屈辱的な敗北感にも似た感情が広がる。
 父親の居場所はわからない。
 母の言葉に嘘はなかった。
 どんな結果でもかまわないと、そう決意して岐阜へ乗り込んでいったはずだった。だが、どんな結果でもかまわないと誓う心に、このような結果を受け止める準備はなかった。
 ほら、言わんこっちゃないっ
 ケタケタと下品な笑い声が背後から浴びせられるような気がする。
 私の言う事を信用もせずに強硬手段になんて出たりするから、こういう結果を招くのよ。何も知らない小娘のクセにさ。
 悔しいっ!
 美鶴はグッと奥歯を噛み締める。俯くと前髪から雫が垂れる。雨足がさらに強まったようだ。出歩く人も、みな傘をさし始めている。
 別に落ち込んでなんかいないさ。もともと父親なんて誰だかわからなかったんだ。わからないという事実がはっきりしただけ、気持ちもスッキリしたんだし。
 言い聞かせ、勢い良く頭をあげる。その目に飛び込む一組の男女。誰だかはわからない。だが、制服は唐渓だ。
 なんでこんな寂れた路地裏に唐渓の生徒が出没するのよ?
 夢中で近くの店に飛び込む。
 衣服を扱う店のようだ。ところ狭しと並べられた商品の間に身を捻じ込むようにして男女をやりすごす。
 どうやら、気付かれなかったようだ。
 ホッと息を吐きながら、だが次の瞬間には、辺りの奇抜さにギョッとする。
 何よこれ? 服?
 手に取る一枚も辺りの衣装も、およそ普段着とは言い難い。
 そうだ。衣服と言うよりも衣装と言ったほうが良いのではないか。
 か、仮装用か? ひょっとして、これがコスプレってヤツ?
 目を点にしたまま、手にした一枚を凝視する。
 こんな服を白昼堂々買ってく人って、いるのかな?
 首を捻る美鶴の耳に、遠くからレジの声。
「ありがとうございましたぁ」
 いるんだな。
 一人で突っ込む美鶴の脇を、女性が一人、横切っていく。不自然に身を衣装の間に捻じ込み、顔を見られないように背を向ける美鶴の存在などには興味もないらしい。背後から、楽しそうな声が聞こえる。
「あ、もしもし、幸田です。今から帰ります。結構おもしろい服が見つかりましたよ」
 可愛らしい声だな。メイド服とか着てあんな声出されたら、男どもは喜ぶんだろうな。
 美鶴は女性の後姿が消えるのを確認して、ゆっくりと衣装の隙間から出た。そのまま店を出て、適当に道を変えながら周囲を見渡す。
 私、何やってんだろう。
 脳裏の隅で、先ほど手にした衣装がヒラヒラと揺れている。まるで美鶴を(わら)っているかのようで、でも怒りなんて全然沸かない。ただ虚脱感が全身を覆う。
 疲れたな。
 ぼんやりと辺りを見渡す。
 そういえば、もう少し行くと、シャンプー買った店があるな。







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